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飛ぶ鳥の献立

かく在りき 書くに溺れし 持て余す惰性と付き合うため

スキですイッチ(仮) 初稿

登場人物

 

・太郎

・一郎

・ハンサム

・ナレーター

 

 

   教室。太郎が何かひそひそやっている。

 

太郎 「あの、好きです。付き合ってください。」普通すぎるか。「初めて見たときから好きでした。付き合ってください。」ストーカーっぽいか。「今日は月が綺麗だね。好き。」ナルシストっぽいか。「俺たち友達やめない?付き合ってくれ。」なんかなあ。

 

   太郎、一郎が入口で見ていることに気づく。

 

太郎 おっと!

 

   一郎、教室に入ってくる。

 

一郎 どうしたんだい、太郎君。

太郎 ごめんね一郎君。変なとこ見られちゃったね。

一郎 もしかして、告白の練習かい?

太郎 ふふふふ、そう。

一郎 そうか。じゃあ好きな人ができたんだ。

太郎 いや、全然。

一郎 ん?

太郎 できてないんだー。

一郎 それじゃあ、なぜ告白の練習を?

太郎 いや、もしいつか僕にも好きな人が出来たとき、練習しておかないと大変だなって思って。

一郎 そうか。

太郎 うん。

一郎 それは、ナイスアイディアだね。

太郎 え?

一郎 ナイスアイディアだね。

太郎 ああ、ありがとう。

一郎 礼には及ばないさ。

太郎 やっぱ一郎君はすごいね、何となく。

一郎 そうだろ、はは。ところで、太郎君。誰かを好きになったこと、ある?

太郎 どうして?

一郎 告白の練習をしているということは、もしかして告白したことがないんじゃないのかな、って。

太郎 ああ、確かに。

一郎 それに君は見た感じ、告白されるような容貌でもない。

太郎 確かに。

一郎 この二点から推理した結果、君は誰かを好きになったことが無いんじゃないか、ってね。

太郎 なるほどー。何でもお見通しだね。

一郎 実に面白い(福山雅治)。

太郎 あ、でも無い訳じゃないよ、好きになったこと。

一郎 なんだ、あるのか。

太郎 でも、告白するほど好きになったことは、ない。

一郎 ん?

太郎 いやーどうしてかなあ。よく分からないんだけど。

一郎 さっぱり分からない(福山雅治)。

太郎 ああ、まあなんていうか、「良いなあ」って思うことはあるんだけど、「告白してもなあ」とも思ったりして。

一郎 太郎君!

太郎 なに?

一郎 君はキスをしたことがあるかい?

太郎 いきなりだね。

一郎 キッス。

太郎 いや、あるわけないよ、僕なんて。

一郎 やっぱり。

太郎 そ、そういう一郎君はあるの、キスしたこと?

一郎 それは、あるよ。してるさ。

太郎 やっぱり。やっぱりみんなもう済ませてるよね。

一郎 まあ、人によるだろうがねぇ。

 

   太郎、一郎をまじまじと見る。一郎、目を逸らす。

 

太郎 やっぱすごいや、一郎君は。なんか、なんでも知ってるって感じ。

一郎 まあ、大抵のことは知っているよ。君とは違ってね。

太郎 すごいや。

一郎 ゴホン。あの、太郎君。さっき、誰も好きになったことがないって、そう言ったよね。

太郎 言ったね。

一郎 それは、絶対におかしい。

太郎 え、どうして?

一郎 言うならば、インポッシブル。

太郎 え、どうして。

一郎 ドントアリエル。

太郎 ・・・え、どうして。

一郎 よろしい。ならば聞こうではないか。

 

   スクリーンが出てくる。

 

一郎 まずは、太郎君。新垣結衣は好きか。

 

   スクリーンに「逃げるは恥だが役に立つ」の文字。

 

太郎 まあ、好きだね。

一郎 では、キスしたいと思うか。

太郎 ま、まあ?

一郎 そうか。

 

   スクリーンにハートが浮かぶ。

 

一郎 では次に。太郎君、二階堂ふみは好きか。

 

   スクリーンに「ヒミズ」の文字。

 

太郎 まあ。

一郎 キスしたいか。

太郎 うーん。

一郎 そうか。

 

   スクリーンに「微妙」の文字。

 

太郎 では次に。綾瀬はるかは好きか。

 

   スクリーンに「おっぱいバレー」の文字。

 

太郎 良い子だとは思うんだけど。

一郎 そうか。

 

   スクリーンに「対象外」の文字。

 

太郎 あの一郎君。さっきからこれは何をやってるの?

一郎 ああ、恋しているかどうかを判別しているんだ。

太郎 え?

一郎 自分が恋しているかどうか、それを判断するのはキスをしたいかどうかだ。

太郎 あ、そういうことですか。

一郎 そう。簡単な話だろう。

太郎 綾瀬はるかはどうしてダメなんですか。

一郎 良い人は、どこまでいっても良い人止まりだ。

 

   スクリーンに「良い人ストップ」の文字。

 

太郎 はあ。

一郎 では次だ。太郎君、マギーはどうだ。

 

   スクリーンに「バズリズム」の文字。

 

太郎 この人は、不倫がどうとか言ってたからな・・・。

一郎 なるほど。こういうことだな。

 

   スクリーンに「ゲスストップ」の文字。

 

太郎 でもさ。今のはみんな芸能人ばっかりじゃないか。僕がどうしようたって無理な話だろう。

一郎 そんなことはない。

太郎 でも。

一郎 いいかい、太郎君。あきらめたら、そこで試合終了なんだよ。

太郎 そ、そっか。

一郎 そしてこれは、身近な人間にも当てはまる。どうだい、街を歩いていて、目の前を通り過ぎる人に対

   して、「キス、したい」と思った事はないかい。

太郎 まあ、あるかも。

一郎 授業中、立って教科書を音読している、隣のあの子。それを見て、「ああ、キス、したい」と思った事はないかい。

太郎 あるかもね。

一郎 映画館、隣でラブストーリーを食い入るように見ている女の子。それを見て、「ああ、キッス、したいな」と思った事はないかい。

太郎 それはどうだろう。

一郎 シチュエーションはどうでもいい。つまり、そうやって「キスしたい」と思う人こそ、君が恋をしている人なんだよ。

太郎 で、でも、キスしたいかどうかだけで判断するのは良くないんじゃないかな。

一郎 どうして。

太郎 だって、ほら、お互いの趣味が合う合わないとか、付き合ってみたらどうも反りが合わないとか、そういう話よく聞くじゃない。

一郎 はあ。太郎君。それは付き合ってみてから考えればいいことじゃないか。

太郎 でも。

一郎 いいかい。太郎君。君が言っているのは、つまりは愛だ。それは恋して付き合ってから勝手に生まれるもんだ。

太郎 そ、そういうものかなあ。

一郎 そういうものさ、恋というのは。

太郎 でも、それって相手の人に悪くないかな。

一郎 君はどこまでも優しい人だなあ。いいんだよ、もっと自己中心的で。わがままで。周りのみんなもそうやってるんだ。君だけ優しい人でいる必要なんでない。

太郎 うん。

一郎 人生の主役は君自身だ、太郎君。君の人生がつまらないと思っているのなら、それは君自身がつまらないヤツだからだ。もっと楽しくいこうじゃないか。

太郎 別につまらないとまで言ってないけどね。

一郎 そうか。まあいい。そして、君が「ああ、この人とキスしたい」と思った時、すぐにその人に声をかけるんだ。なんなら告白してしまってもいい。

太郎 そんなの失敗するに決まってるじゃないか。

一郎 失敗してもいいんだよ。相手なんて星の数ほどいるんだ。ダメで元々。ダメだったらまた他の人に声をかければいいんだ。

太郎 な、なるほど。何となく理屈は分かった気がするよ。

一郎 だろう。失敗を恐れるな。ドントビーアフレイド!

太郎 ドントビーアフレイド。

一郎 ドントビーアフレイド!

太郎 ドントビーアフレイド!

一郎 そうだ!

太郎 そっか。何か途中から違うことを学んだ気がするけど、そうだね。勇気を持つことが大事なんだね。

一郎 やっと分かってくれたか。

太郎 やっぱすごいや、一郎君は。キス、済ませた人は違うね。

 

   一郎、目を逸らす。

 

太郎 なんか色々吹っ切れたよ。ありがとう、一郎君。

一郎 れ、礼には及ばないよ、太郎君。

太郎 じゃあ、一郎君。

一郎 なんだい。

 

   太郎、手を差し出す。

 

一郎 あ、ああ。

 

   一郎、握手をしようとする。

 

太郎 一郎君、僕たち友達やめない?付き合ってくれ。

一郎 え?

   

太郎、手を差し出したまま、目をつぶり、唇をすぼめてキスを待つ。

 

一郎 あ、ああ。そういうことだったのね。そっか。なるほどなるほど。ま、まあ、責任は僕にあるよね。

 

   太郎、目を開ける。

 

太郎 まだ?

一郎 ああ、ちょっと待ってくれ。

 

   一郎、目を逸らす。

 

一郎 まさか初めてがこんな風になるとは。しょうがない、うん。

 

   一郎、意を決して太郎と握手をし、キスしようとする。その時、廊下をハンサムが通り過ぎる。

 

太郎 待って。待って。好きです。付き合ってください!

 

   太郎、ハンサムを追いかけて教室を出ていく。

 

一郎 あれ、勝手に告白されて、勝手にフラれた。くっそお、僕だって恋、するぞー!

 

   一郎、客一人ひとりに片っ端から告白していく。ナレーター登場。

 

ナレ 皆さん、恋、してますか?している人も、していない人も、どんどん人を好きになりましょう。そして、どんどん声をかけましょう。自信がない?大丈夫。失敗は成功の母とも言います。人を好きになる事ほど、素敵な事はありません。口で言うのは簡単。あとは、勇気を持つだけです。人は良い事ほどすぐに忘れて、悪い事ほど覚えているものです。それなら、こんなお話忘れてください。あーだこーだ言っている暇があるなら、隣の人に声をかけましょう。いいから声をかけましょう。四の五の言わずに声をかけましょう。皆さんに、幸せあれ。

 

                                              終

“さる”からヒトを始めよう 初稿

登場人物

 

・青年

・医者

 

 

映像。「去る2045年。人工知能AIがとうとう人間の知能を超えようとしていた。世に言われる「技術的得異点』が迫っていたのだ。このままでは世界はAIに支配されてしまう。そこで、人間はAIを自らの体内に取り込み、合体することで、新たな生活を手にいれたのだ。」

 

 診療室。

 

医者 ハイじゃ、次の方どうぞ。

青年 失礼します。

 

   青年が入ってくる、

 

青年 どうも。

医者 どうも。じゃ、ちょっと失礼しますね。

 

   医者、頭に人差し指を当てる。

 

医者 はいはい、○○さんね。相談。ほう、どういった相談でしょうか。

青年 ああ、そんな感じで全部入ってくるんですね。

医者 あ、これね。そうそう。問診票とかは全部送られてくるんですよ。便利ですよね。

青年 前はパソコンとか通してましたからね。

医者 でも今は脳内に一発で情報が送られてくる。時代は進みましたよ、いやいや。

   で、どういったご相談ですか。

青年 ああ、そうでした。はい。あの、言いにくいんですけど。

医者 どうしました。

青年 あの、笑わないで聞いていただけますか。

医者 まあ、ええ。

青年 あの、僕の友達っていうか、周りの人に。

医者 はい。

青年 サルって呼ばれるんですよ。

医者 うんと、え?

青年 サルって呼ばれるんです。

医者 えっと、○○さんが?

青年 はい。

医者 あの、ですね。ウチはその、そういった相談は扱ってないんです。 

青年 でも呼ばれるんですよ。

医者 ですから。

青年 とても嫌なんです!

医者 はあ。

青年 今まで我慢してましたけど、もう耐えられないんです。

医者 まあ、どっちかっていうと長芋とかゴボウみたいですけどね。

青年 茶色い野菜ばっかじゃないですか。

医者 まあまあ。でもホントに個人的な悩みを聞いてる時間は無いんですよ。

青年 はい。

医者 あ、もしかしてあれじゃないですか。まだ済ませてないから。

青年 え。

医者 AI合体手術。まだ済ませてないからでしょ。

青年 多分それだと思います。

医者 ああ、なるほど。それでね。うまいこと言ったもんだ。

青年 はあ?

医者 いやいや。それでどうするんですか。受けるんですか。

青年 それをまだ迷ってるんです。

医者 はあ?受けないんですか?絶対受けた方がいいのに。全然便利ですよ。

青年 いや、なんていうか。まだちょっと不安なんです。ほら、ついこの前までAIが

   人を支配するんじゃないかって言われてたじゃないですか。

医者 はい。

青年 だからもし自分がAIと合体しちゃったら、それこそ自分が支配されるんじゃな

   いかって。

医者 何言ってるんですか。それを防ぐためにAI合体手術っていうものが出来たん

   じゃないですか。

青年 まあ、そうですけど。

医者 人は自らの体内に取り込むことでAIを支配し、さらに今までとは比べものにな

   らないほどのより良い生活を手に入れたんじゃないですか。

青年 まあ、確かに。

医者 そうでしょ。受けた方が絶対にいいんだ。

青年 でも、聞きたいことが何個かあるんですよ。

医者 なんですか。

青年 あの、笑わないで聞いてほしいんですけど。

医者 はい。

青年 あの、あれっていうか、セックス。セックスは気持ちいいままですか。

医者 あなた何個かあるうちの最初がそれですか。

青年 いや大事じゃないですか。よく考えてください。そもそもAIって勝手に増えて

   くじゃないですか。だからその繁殖行為って必要ないわけでしょ。ってことは脳

   も勝手にセックスは気持ち良くないものだって考えちゃうんじゃないんですか。

医者 あのね。いくらAIと合体しているからとはいえ、もとは人なんです。人が増え

   るためには、その、セックスが必要じゃないですか。

青年 ああ、そっか。

医者 それにね。言っちゃ悪いですけど、多分あなたの何十倍も気持ちいいですよ、

   セックス。

青年 は?

医者 AIでね、どうすれば一番気持ち良くできるかっていうのを計算するんです。そ

   れはもう、すごいですよ。

青年 そんなことできるんですか?

医者 はい。私が思うに、恐らくAIだってね、気持ちいいことが好きなんですよ。

青年 そういうことにも使えるんですね。

医者 どうです。手術受けたくなったでしょ。

青年 いや待ってください。

医者 なんですか。

青年 ごはん!

医者 は?

青年 ごはんおいしく感じないでしょ。

医者 何言ってるんですか。美味しいですよ。AIでレシピなんかもすぐに見れますか

   らね。最近では逆に太ってきちゃって、って何言わせるんですか。

青年 勝手に言ったんじゃないですか。

医者 だから受けなさいって。今だと補助金も出ますから。

青年 それじゃあ、テレビ!

医者 なに。

青年 ドラマとか映画とか頭いいもんだから途中で結末分かっちゃうでしょ。

医者 別にそんな感じで見てないですから。

青年 僕ドラマ大好きなんですよ。その楽しみを奪われるのが納得いかないんですよ。

医者 知らないですよドラマ好きは。

青年 いいですか。これは僕の楽しみ方なんですけど、まずは生で一回見るんです。そ

   それで録画しておいたのをまた見返すんです。そうすると「ああ、だからこの人

   こう言ってたんだ」とか分かるんですよ。

医者 それはAI関係なくあなたがめんどくさいってことじゃないんですか。

青年 そうかもしれないですけど、僕はそれが楽しいんですよ。

医者 まあ、あなたみたいな生身の人間は、そうやって考えてしまうのも仕方ないかも

   しれませんね。

青年 ちょっと、なんですか。

医者 あのね、人はサルからどうやって進化したか知ってますか。

青年 何言ってるんですか。

医者 いいですか。サルはね、道具を手に入れたんですよ。道具を使うために二足歩行

   によって手が自由となり、物を掴むに親指を手に入れたんです。

青年 それが何の関係があるんですか。

医者 つまりね。われわれ人にとって見れば、AIとはいわばサルの親指なんです。進

   化のためのワンステップに過ぎないのです。

青年 どういうことですか。

医者 まだ分からないのか、あんた。あんたはつまり、親指も手にしていないただのサ

   ルだってことだよ。

青年 ひどくないですか。あんた医者でしょ。

医者 医者もクソもねえんだよ。何もわからないサルにサルって言って何が悪いんだ!

青年 言っていいことと悪いことがあるでしょ!

医者 ああもう、キーキーうるせえな、このサルは!

青年 うるさいのは、どっちかって言ったらあなたでしょ。

医者 あーうるせえ、うるせえ。そうやって鳴くことしかできねえんだな、サルは。

青年 もういい。頭きた。手術なんて受けねえよ。

医者 そうですか、そうですか。一生そうやってキーキー鳴いてればいいんだよ、あん

   たは。

青年 くっそお前。覚えてろよ!

医者 うるせえ!

 

   青年、診療室を出る。

 

医者 ああやってバカみたいに古い考えのやつがこの世界をダメにするんだよ。

 

   青年、戻ってくる。

 

医者 なんだよ!

青年 失礼しました!

 

   青年、診療室を出る。

 

医者 気持ち悪いな、もう。はあもう全くやってられませんよ。ったく。はい、じゃあ

   次の方どうぞ。

 

   青年、診療室に入ってきて、医者を銃で撃つ。そして、人差し指を耳に当てる。

 

青年 もしもし。はい。たった今、差別思想因子を排除しました。はい。はい。それで

   は、次の現場に向かいます。

 

   青年、診療室を出ようとして、立ち止まる。

 

青年 キーキーうるさいのは、あんただよ。

 

                                         終

返らず

ー覆水盆に返らずー

村井は一人、居酒屋で酒を嗜んでいた。今年で四十二になるが、未だに人生の伴侶とは巡り会えていない。だからこそ一人飲みができる。これは独身である唯一の利点と言えるだろう。頭上のテレビから流れる野球中継を肴にぐいとビールを飲み干す。二杯目からは芋焼酎のロックと決めている。普段は会社の後輩達を引き連れているが、たまの一人も悪くは無い。女将に注文を通しふうと一息ついたところで、急に一抹の不安が頭を過ぎった。

「この先、どうなるんだろうなあ。」

母は既に無いが、七十を過ぎた父がいる。数年後には誰かが面倒を見なければならない。弟は一人いるが彼にも家庭があるため、やはり長男の自分に役が回るだろう。そうなれば、妻がいない事は非常に痛手であった。今までチャンスがなかった訳では無い。奥のテーブル席にいる若い二人組のように色恋沙汰に溺れていた頃もあった。しかし、こうなってしまった今現在において、自分を拾ってくれるような器量の良い女性に出逢う可能性はほぼ皆無である。

「覆水盆に返らず、か。」

水を犠牲にして、自分は何を手に入れたのか。仕事にはそれなりにやり甲斐を感じている。部下からの信頼も厚い、と思う。だが、違う。言葉すれば綺麗な事のように見えてしまうが、本当は漠然と思うのみでさほど実感は得ていない。趣味も特に無い。車に乗るのが好きと言うくらいだ。一体、自分にはどれ程の価値があるのだろうか。

「返らず、ね。」

気づけばテレビは別の番組に変わっていた。目の前にあるグラスにはぽつぽつと小さな水滴が付いている。

ー覆水盆に返らずー

「ならば新たな水を入れれば良い。」

村井は焼酎をぐいと飲み込んだ。

 

憩に浸る

 兎に角、珈琲屋が好きである。華やいだカフェのような場所では無く、古き良き所謂“喫茶店”だ。最寄の駅前には2つの行き着けを拵えている。顔を出せば決まって近住であろう御年寄が週刊誌や競馬新聞などに興じ、其々の生活を垣間見ることができる。この自由な空間もとい雰囲気が好きなのだ。安心、安息、寛ぎ、得る感覚は筆舌し難い。先輩に習いソファー席にぐいと腰掛け、私も自由な時間を過ごす。コーヒーは400円と懐が痛いが、場所代だと思えばまだ一考の余地がある。舞台稽古の最中であれば台本の見直しや台詞覚えに時を費やす。公演が近づくとほぼ缶詰になる。カップをソーサーに置く音や他客の会話などの雑音が返って心地良い。急ぐ用事のない場合は、思慮を巡らすと言う名のぼっうとする時間に充てる。早速役に立つ訳でも無いが、そのうち必要とならんアイデアばかりが思いつく。意味無しとこき下ろす方も多々いらっしゃるだろうが、どうしてか私には“そのうち”が来るのではと思えて仕方が無いのだ。

 淑女が共に住み始めてからは、偶の一人を楽しむ場となった。理由がある訳でも無い。しかし誰でも思い当たる節があるだろう。言うなれば私にとっての秘密基地である。何度か同伴の所望はあったが秘密なものは秘密である。いつでも基地には私だけの時間が流れる。

感冒

 移り気な季節に呼応するが如く、私は風邪を引いてしまった。喉の痛みを感じた頃には時既に遅く、徐々に悪化の一途を辿った。元より鼻の弱い私だが、この鼻水の量の多き事には苦悶している。澄んだ外界の空気を取り入れんとするも、上手く呼吸の出来ないもどかしさと酷い息苦しさが残るばかりである。最も不調であった日には、熱が38.2℃を記録した。私自身としては、以前インフルエンザウィルスに感染した際の40.9℃という自己記録に誇りを持ち、「こんなもの医者の手に掛かるほどでもない」と高を括っていたが、親の薦めに根負けする形で仕方なしに病院へ行くこととした。

 待合室には私の同士達が勇ましく坐していた。どうせ病院に掛かる者達だ。さぞ自らのたけなわな症状に畏敬し、我冠を頂かんと驕倣の限りを尽くしているに違いない。猛者揃いの中にあって、私はたじろぎを隠せなかった。問診票を適当に済ませると、診療までさほど時間は掛からなかった。ぞろぞろぞろと新たな同士は後を絶たず、私は遺憾の念に後ろ髪を引かれながら先生の下へ赴いた。先生は優しげな表情で待ち構えて居られたが、突如として私の鼻に綿棒を突き刺してきた。これ程の痛みは長らくご無沙汰だ。先生は表情を微塵も変えず、インフルエンザの検査だと仰った。勿論、インフルエンザでは無かった。薬を御処方頂き、診療室を出る際もその顔は慈を表していた。あれはもう顔に面が張り付いているのだと、ただただ病院への嫌忌を強めるだけだった。

 あれから数日が経つが、薬は1日分しか飲まなかった。どうせまた風邪を引くので、それまで保存せんと貧乏性が働いている。体は治癒に向かってはいるが、完治とまでは行かない。共に住む淑女は看病する素振りも見せない。誰が心配するでもない風邪は、時に流れてそのうち姿を消すだろう。

蜜柑

 机の上に置かれたみかんは見事に熟しており、殺風景な自室に橙色の明かりを灯していた。冬の季語として古くから日本人に愛されるみかん。今年も彼らの旬がやって来た。目の前の一つを手に取り、よく揉み込む。こうすると甘くなるらしい。指先から、つんと甘酸っぱい香りが刺さって来た。

 11月19日。私は祖父のお見舞いへ行った。以前から入退院を繰り返し、「これが最後になるかも知れない」と聞かされていた。病院に入り、奥へどんどん進み、別棟の4階。随分と隔離されたところに祖父は居た。第一声は「よう」。互いに同じ言葉だった。すっかり痩せこけた姿からは、何故か満ち溢れた生命力を感じた。それから、他愛の無い話が続いた。祖父はモルヒネを投与されており、話の内容が支離滅裂で理解できないため、私はただただ相槌を打つのみであった。30分がとても長く感じられた。これ以上の長居は禁物と帰ろうとした時に、祖父は四つ折りの一万円札と一つのみかんをくれた。私は一万円だけを受け取った。金のみに執着した訳ではなく、みかんは祖父が食べるものだと思ったからだ。私をこの行為に至らしめたのは、偏に安心だった。その夜、祖父は亡くなった。結局のところ祖父は最期に私に会いたかったのだ。愚、何もかもが愚かである。祖父からの愛に躊躇う私は何者なのか。心にぽっかりと大きな穴が開いてしまった。

 手元のみかんを2つに裂くと、白の薄皮が透けて橙色が見えている。その一房一房に果汁がぎっしりと詰まっていて、跳ね返る感触がある。もし、みかんは食べられることに恐怖を感じているならば、この感触は必至の抵抗である。ならば、もし、みかんが食べられることを「仕方ない」とするならば-。一房を口にすると、果汁は喉を過ぎ、体全体に染み渡った。穴を埋めるためにはまだまだ足りない。

寒空に降ゆ

 11月の東京に初雪が観測された。54年ぶりだと言う。どうりでここ数日、寒き日に身を縮めている。もはや寒冷や降雪への嫌悪などを差し置き、「今年も冬が来た」ことを万人が認めざる負えぬ状況となった。冬はこれまでの陽気な日々を一変させ、空を灰色一色へと塗り替えてしまった。私はユニクロのフリース一枚を買い置いていた。寒き中、表へ繰り出し活動的な日々を送らんとの意思はなく、ただ単純に憎むべき冬と対峙する覚悟を決めただけのことである。寒さには、人の向上心を叩き潰すだけの影響力と無慈悲さがあると考える。

 15時、惰眠を貪る自分に辟易とし、散歩することを決意する。下ろし立てのフリースに袖を通し、その真新しさから来る高揚感を身に感じつつ、表へ飛び出した。次の瞬間には、心に空虚が広がる。当たり前のことながら、それでも寒さは心身に応えた。辺りを見渡せば、さながら白き夜であった。黒き闇とはまた異なる、空っぽな空である。温もりはまるで感じられない。目的地を決めずに家を出てしまい、「参った」と思いながらも取り敢えずと歩を進めることにした。大通りへ抜けると人の姿も疎らに見え始め、自分と同様に寒きを耐える彼らに対して、言葉に出さず労をねぎらう。誰もかれも口数は少ない。代わりに口先を発つのは、息である。吐息は白く彩られ、幻想的な雰囲気への共感を強いてきた。私はこの勝手千万に憤懣やる方なかった。呼気の可視化とは即ち生きている証である。生に背を向ける私にとって、これぽっちの些細な事柄でさえも、自らが命の拠り所として血肉沸き立つ存在であると痛く感じてしまうのだ。何の気なしに歩くうちに体温も下がり切り、暖を求めた私は喫茶店にてホットコーヒーを飲む。喫煙可の席は人で溢れていた。煙草に火を着けたところで、文を書き残すことを決める。今後、私は幾度の冬を経るのだろうか。何年後かの冬にはまた異なる思いを持つことになるのだろうか、と半ば希望にも近い愚計を巡らせた。帰路に就く頃には、辺りは黒き夜であった。