飛ぶ鳥の献立

かく在りき 書くに溺れし 持て余す惰性と付き合うため

返らず

ー覆水盆に返らずー

村井は一人、居酒屋で酒を嗜んでいた。今年で四十二になるが、未だに人生の伴侶とは巡り会えていない。だからこそ一人飲みができる。これは独身である唯一の利点と言えるだろう。頭上のテレビから流れる野球中継を肴にぐいとビールを飲み干す。二杯目からは芋焼酎のロックと決めている。普段は会社の後輩達を引き連れているが、たまの一人も悪くは無い。女将に注文を通しふうと一息ついたところで、急に一抹の不安が頭を過ぎった。

「この先、どうなるんだろうなあ。」

母は既に無いが、七十を過ぎた父がいる。数年後には誰かが面倒を見なければならない。弟は一人いるが彼にも家庭があるため、やはり長男の自分に役が回るだろう。そうなれば、妻がいない事は非常に痛手であった。今までチャンスがなかった訳では無い。奥のテーブル席にいる若い二人組のように色恋沙汰に溺れていた頃もあった。しかし、こうなってしまった今現在において、自分を拾ってくれるような器量の良い女性に出逢う可能性はほぼ皆無である。

「覆水盆に返らず、か。」

水を犠牲にして、自分は何を手に入れたのか。仕事にはそれなりにやり甲斐を感じている。部下からの信頼も厚い、と思う。だが、違う。言葉すれば綺麗な事のように見えてしまうが、本当は漠然と思うのみでさほど実感は得ていない。趣味も特に無い。車に乗るのが好きと言うくらいだ。一体、自分にはどれ程の価値があるのだろうか。

「返らず、ね。」

気づけばテレビは別の番組に変わっていた。目の前にあるグラスにはぽつぽつと小さな水滴が付いている。

ー覆水盆に返らずー

「ならば新たな水を入れれば良い。」

村井は焼酎をぐいと飲み込んだ。